ラーメンの写真

ラーメン屋でラーメンを写真に写す行為とその写真が、
僕は苦手である。
もっともそれ自体ポピュラーな風景になってきたし、
他人のする事にいちいち構ってもいられないので
ほとんどの場合スルーしているわけだが
それでも胸の中ではなんだかなあと思っている。
他人がラーメンの写真を撮ろうが撮るまいが、
そしてそれをネット上などで公表しようがしまいが
僕は何も損をしないのに、
どうしてこんなに引っかかるんだろう。
いろいろ考えたのだけれどもたぶん、
撮影者が想定する(期待する)その写真の価値と
僕がその写真に感じる価値に相当な隔たりがあり、
その隔たり・ズレに居心地の悪さを感じるからだろうと思う。
まず、ラーメンの写真の価値についてだが
丼をいっぱいに大写しした写真には
ほとんどの場合、価値がない。
一見、商業的なメニュー写真のように見えるので
クリエイティブな作業をしたかのように錯覚するが
それは大きな間違いだ。
被写体との距離やレンズの焦点距離も調節できず、
自分の意志とは関係なくあてがわれた席の地明りで、
「有象無象の客の中の無作為な一名、に作られた
『食べるため』の一杯のラーメン」が
特別に素晴らしく写るわけがない。
そのラーメン店が有名店であればあるほど、
同じメニューのラーメン写真はインターネット上に溢れている事だろう。
インターネットで探せる程度の写真を
この世の中にもう一つ増やす事には意味がない。
※先ほど「ほとんどの場合」と書いたが、
つまりマイナー店や、有名店でも最初期の情報となれば
有意義である、と言えるだろう。

これは私が食べた、私にとっては世界に一つのラーメンなのだ、というのなら
丼を大写しにするべきではない。
ラーメン大写しの写真には
撮影者とラーメンの関係値は写り込まないからだ。
なんとかがんばって、撮影者なり周囲の状況なりをも
写真の中に写し込むべきなのだ。
そうすれば、ラーメン写真は記念写真へと昇華する。
そんなたいそうな事を考えて撮る必要はない、という向きもあろう。
例えばブログにおける挿し絵の意味を為す写真等がそうだ。
そう、美的な感覚での評価はやめて、
状況証拠としてのラーメン写真ならどうなのか。
食べた事を信じてもらうため?
その目的においては確かに、写っている事だけが重要だろう。
有名な店でラーメンを食べてきた。
ほら写真もある。
しかしラーメンごときで誰が疑ってかかるというのだろう?
誰もその写真に「情報の正当性」を期待しない。
へえ、と一瞥されて、そのまま忘れ去られる。
提示した本人でさえも、
本気でその写真から真贋を読み取ってほしいとは思っていない事だろう。
その時点で、提示された写真は惨めな存在となる。
テキストや日記のトッピングとしての写真、
いや効果フィルター程度の存在意義しかないかもしれない。


僕にはわかっているのだ。
こうしていくらそのラーメンの写真について真剣に考えても、
撮影者のほうはいきなりひらりと身を翻して
「どうでもいいじゃん」とせせら笑って逃げたりする事がある事を。
ほとんどの、ラーメンの写真の価値なんて、
所詮その程度なのではないかと、僕は思うのだ。