風景写真の今

風景写真の今
僕は写真雑誌を読まないので(コマフォトは読んでるけど)
最近の動向はあまりよく知らないんだけど、
風景写真というジャンルは今、
どんな画像をその対象としているのだろう。
インターネットで風景写真のコンテスト規定を検索すると、
中には合成・加工や強い色調変更は不可、といったものも見受けられる。
しかし銀塩の時代から、
写真には特殊効果の技法が数多くあったのだ。
ポピュラーなところでは特殊効果フィルターがそうだし
魚眼レンズも特殊効果だと言える。
地味なところでは偏光フィルターや
モノクロ写真におけるカラーフィルターも特殊効果に入るだろう。
フィルムであれば赤外線フィルムは風景写真によく使われた。
高感度フィルムの素粒子仕上げなどという技法もあったし
カラーならばベルビアを使用することはその選択自体が
特殊な色調を期待してのことだった。
特殊な機材を使わないというのであれば
ビューカメラのアオリは明らかに特殊効果であるし、
極端に言えばハイキー・ローキー、
スローシャッターだって特殊効果である。
なのになぜ今になって画像の加工を拒絶するのだろう。
写真界では、
作品はシャッターを切った瞬間に完結するという考え方が一部にある。
リバーサルフィルムを使用した場合のように、
以後のプロセスにカメラマンが関知できないケースもあるので
禅道のような様式美の探求から
そんな考え方が生まれたのかもしれない。
トリミングを良しとせず、フルフレーミングにこだわるのも
同じ意識から生まれたものかもしれない。
だがしかし、だとすると本来モノクロ写真は立ち行かない。
その逃げ口上としては、
「撮る瞬間にどう現像をし、どうプリントするか既にイメージが決まっていて
以後のプロセスはその実現に過ぎないからOK」といったところか。
しかしそれはデジタル画像処理にも通用する言い訳だ。
そんなふうにどうも筋の通らない風景写真界隈だが、
もしかしたらそれは風景写真が
「ネイチャーフォト」というジャンルと重なる部分が
あるからではないだろうか。
ネイチャーフォトも細分化していくといろいろある。
自然科学の記録写真が本分なのだろうけれど、
抒情的な、例えば自然破壊を憂える写真や
自然の儚い美しさ・可愛らしさを切り取った写真などもまた
ネイチャーフォト愛好家にはとても人気があるようだ。
ネイチャーフォトとなればドキュメンタリーの側面も有しているから
派手な合成写真が好ましくないのも頷ける。
だが僕が気になっているのは「単純に、綺麗な風景写真」だ。
今日において風景写真は昔よりももっと生活にちりばめられるようになった。
PC、携帯電話、スマートフォンなどの壁紙やコンテンツの背景の事だ。
感じのいい、いい気分になる画像。
その多くは、決して作業の邪魔にならない、
ただ美しい以外にはさして主張のない画像である。
そう、その美しさは、理由のある美しさではなく
もっと直観的、いうなれば生理的に美しいと感じる美しさだ。
そうした風景写真はライトユーザー、いや大多数のいわゆる大衆に対して
非常に便利に使えるため、安定した人気を博している。
この、「単純に、綺麗な風景写真」は
デジタルカメラの普及によって、大きく変化した。
曇り空を青くするなどというのは序の口で、
不要物の除去も簡単になったし、
ホワイトバランスの変更も劣化なしにできるから
太陽光の色温度による呪縛もほぼなくなった。
しかしなんといっても大きいのは、
大衆が好きなドラマティックな階調や鮮烈な彩度、
逆にフラットで淡白なあっさりした色調、などを
自由にコントロールできるようになったことである。
「それはまやかし、偽物だ」というのは簡単だが、
ではその画像処理された風景写真には価値がないのだろうか。
悩ましいのは本物であろうが偽物であろうが
美しい風景写真が人を喜ばせるという点である。
人の心理に対する効能がある以上、
画像処理で得られたイメージも、「美」には違いない。
その写真が美しければ
部屋に飾りたい・PCのデスクトップに飾りたい、と
思う人はたくさん出てくるだろう。
その、美しいと思う心には、
それが真実の風景かどうかは問題ではない、という事なのだ。
真実でなくてもよい、となると
風景写真は自由なキャンバスとなる。
人の心に美しく響くことを目標にするならば
コラージュであるかどうかなどは
ただのプロセスに過ぎないからだ。
例えば日本にオーロラは出現しないが
富士山とオーロラを組み合わせた画像を誰かが作ったとして
それが人々の美しいと思う心に響く可能性は十分にある。
確かにそれは捏造なのだけれど、
実写だと主張したのでなければマナー違反ではないし、
そこに需要があるならば何よりもそれが雄弁に物語るはずだ。


偶然そこに居合わせたからこそカメラに収める事ができた、
その幸運さを価値とする意味合いは、
僕には今や風景写真に見出す事はできない。
だからそこに、譲れない価値観を置くのは
もうやめたほうがいいのではないかと思う。
となると。
撮影者の、風景写真に対するアプローチは
次のフェーズへ移るのではないだろうか。
「せっかくだから撮っておく」という感覚が、
日本人には昔からある。
この行為が、二極化すると思うのだ。
「デジタル処理で良い写真に変化するかもしれないから撮っておく」。
というのが一つ。
「良い写真にならないならばシャッターを押さない」。
というのが一つ
(習作としての撮影は除く)。
特に後者について言い添えると、それはつまり
「その時間にその場所へカメラを持参したこと」は
特に評価されることでもなく、評価を期待することでもない、
ということだ。
これは相当辛辣な話であるが
不景気なこの社会が成果主義となっている昨今、
さほど荒唐無稽な話でもないだろう。


風景写真は今や、
「風景をテーマに構築された画像」へと変遷している。
それを寂しいと思う気持ちは、
きっとただの感傷だ。
時代は変わってしまったのだ。


ただ。
評価を求めなければ、何でも有り。なのだけれども。


(後書き)
写真の媒体が、印刷物やプリント等の反射原稿から
モニターディスプレイなどの透過原稿(原稿?)になって
写真は美しく観賞できるようになった。
確かに見かけはそうなのだけれど、
ドット密度はといえば一般的にはまだ72dpiや96dpi、
今年2012年に入ってやっとAppleから
200ppi越えのRetinaディスプレイが出たぐらいで
まぁかなり低レベルな話である。
奥行きという感覚がないがしろにされているわけだが
即効性が大衆に支持されるのであれば
残念ではあるがそれもまた仕方のないことなのだろう。