我が子が将来ベンツに乗るようになってもそれは俺の幸せじゃない

上の子が中学生になった。
いろいろ考えて、しっかり進学塾に行かせることにしたので
クラブ活動と合わせると、かなり忙しい毎日になりそうである。
キラキラした中学時代をこんなふうに使わせてしまっていいのかと
辛い気持ちも本当だ。
だが今後、ポリシーのない中途半端な進学に出資する気はないので
学歴を得るのならがんばってもらうしかない。

もっともそれも、すべてが本人の意思というわけではないのだが。

本当は、そんなに上を目指さなくてもいいと思っているのだ。
よく、「とんかつをいつでも好きな時に食べられる程度に」と
言われるがまったくその通りで、自分の子供たちには
野菜を食べなくちゃという時に屈託なく野菜を買えるような生活を
送ってもらえればいいと思っているのだ。
住居は多少狭くても清潔であればと思う。

ただ、お金がないから子供を作れない、という状況は避けさせてやりたい。
それはこの先、結構な贅沢となるのかもしれない。

まぁしかしともかく、気持ちとしてはつつましくも充実した生活を
送ってくれればと思っているのだ。
だからいわゆる高所得者になってほしいわけではない。

そもそも、子供が将来ベンツに乗るようになっても、それは俺とは関係がない。

このことを、最近よく考える。

子供の人生は子供のもの。
だから子供の好きに生きるべきで、
親はその手助けをしてやればいいのだと思う。
年端のいかないうちは親が手を引いてやることも必要だろう。
だが基本的にそれは親の人生ではないのだ。

「親なら子供の幸せを望んで当然」というのが一般的な考えだと思うが
それは親の勝手な願望でもある。
また、よくわからない概念でもある。

例えば子供が美味しいものを食べたとしても、親は別に美味しくないし
子供がそういう食事をしたことを知ることもない。

子供の収入から察するに「今も幸せに暮らしているはずだ」と想像することで
安心感を得ているのが親の幸せの正体だ。

であれば、子供が栄養のある食事をつつがなくできていれば十分なのだ。
それ以上は、別に俺とは関係がない。

子供がかけっこで一等になる。これは誇らしい。
なぜかというと能力的に優れていることを示す結果であり、
自分の遺伝子や育て方が優秀だったと思えるからだ。
テストでいい成績をとる、これも誇らしい。
自分の遺伝子や育て方が優秀だったと思えるからだ。
しかし、成功の証である高級車、高級なアクセサリー、高級な暮らし、などは
俺はたぶんまったく誇らしくない。これはなぜなんだろう。

思うに、俺には子供を自慢する、という気持ちが欠けているのだろう。
虚栄心という言葉はよくないニュアンスで使われがちだが、
俺は虚栄心を忌避し過ぎているところもあって、
本当はもっと、誇りに思っているということを表してやるべきなのかもしれない。

でも、高級車にしても高価なアクセサリーにしても
見る人がいてこそのものだと思ってしまうのだ。
その、価値観を他人の評価に委ねてしまうことに
俺はどうも同調できない。

それで何が言いたいかというと、
子供の進学のための勉強は、
本当はベンツを目指せるほどじゃなくていいのにな、ということなのだ。
とんかつを食えるぐらいのやり方があればいいのに。

だが、マージンも含めると、
ほどよい勉強量ではとんかつが約束されないのだ。

二極化、格差社会。どうにも付いて回ってくる。
そういうことを実感している春である。