「響け!ユーフォニアム」の撮影技法

響け!ユーフォニアム2」が最終回を迎え、
とても素晴らしい作品に出合えた喜びを噛みしめるとともに、
終わってしまった寂しさも背負い込んでいる。
つくづくこの「響け!ユーフォニアム2」は好きな作品だった。
好きな理由はそのほとんどが作画についてである。
写真や映画に寄った手法は僕にとって語りたいことだらけで、
最終回を待って一文書こうと思っていたのだが、
雑誌「アニメスタイル」007号で
響け!ユーフォニアム」一期の撮影手法の特集が組まれていることを知り、
まずはそちらを読んでみたところ、
僕が惹きつけられた作画(撮影)についての内容がかなり多く、
その「アニメスタイル」の「響け!ユーフォニアム」特集について思うことを書けば
ひと通り気が済みそうなので、そうしてみようと思う。


雑誌で引用している画像をこのブログ内でも掲載すれば
たいへんにわかりやすいのだが、
著作権のことなど心配なので、とりあえずやめておくことにする。

被写界深度の浅さ(P15)

浅い被写界深度で作られた絵について、
文章中では「主要な部分への意識の集中」や
「薄暗い室内、ということの表現」をその効果として説明されているが、
それはもっともとして、別の感じ方を僕はしたので
写真家の文法になってしまうが、ちょっとお付き合いいただきたい。


校内の教室、といったシチュエーションにおいて、
カメラの絞りは開放と最小、どちらがとっさに撮影できるかというと
例えば絞り優先AEの場合、
開放絞りになっていたほうが、撮影できる(フィルムに写し取れる)可能性は高い。
絞りが開いていて、そのことで明るすぎる場合、シャッター速度が速くなっていくのだが、
ISO……いや、ASA感度100や400のフィルムにおいて
開放 f1.8 でも1/2000秒、1/4000秒のシャッターが要求されることはそうそうないから
カメラの扱える範囲内で露光を行うことができる。
つまり露出制御としては、絞りが開いている状態は悪くないということだ。
被写界深度の浅さによりピンボケのおそれは高まるが、
ファインダー像よりひどくなることは考えにくいので
写真にならないレベルでピンボケになる可能性はかなり低い。

それに比べて最小絞り、例えばf22やf32といった絞りになっていた場合、
1秒クラス以上の低速シャッターになる可能性がある。
標準レンズであっても手持ちでこれはかなりきつく、
写真の体をなさない可能性が高い。
だから、とっさに撮影しなくてはならない場合、
カメラマンは開放絞り側からアプローチするんじゃないかと思う。僕はそうだった。


ちなみに絞り優先AEではなく、マニュアル撮影の場合、
急いでいる時はシャッター速度ダイアルではなく
鏡胴の絞りリングを回すだろうから
開放か最小絞りかという話にはそもそもならないんだろうけど。


この知見がどう作用するかというと、
浅い被写界深度の画像を見ると、
切羽詰まった・突然の・心構えもできない状態、という感じを僕は受けるのだ。


何かが起こった。
とにかく撮らなくてはとカメラを構える、
露出をチェックする間に物事は進んでしまうから、
なんでもいいからとにかくシャッターを押す、そんな感じ。


これは何もネガティブな事件に限らない。
ふと目に入った女子生徒の横顔がフォトジェニックだった、
すぐ撮りたい、焼き付けたい、
そんな時も、カメラの状態を気にする暇なんてない。


同じような様子を表す技法に、
・カット始まりの、アウトフォーカスからインフォーカスへ移っていく、
・カット始まりの、露出オーバー(またはアンダー)から適正露出へ移っていく、
などがあると思う。
当事者が目覚めるシーンなどで使われるようなやつだ。
不完全な状態から良好な(マシな)状態への変化、ということで
上記の浅い被写界深度と同じ効果があるのではないかと思う。

カメラマンの存在(P17「ピン送り」)

1フレーム内での複数のキャラクターに対して交互にピン送りをすることについて、
文中では、キャラクター同士の距離感や感情の表現でもあった、というふうに
「被写体側の事情」として捉えられていたが、
僕としては「カメラマンが視点を変えた」ということに気がいってしまっていた。
片方の言い分だけでなく、他方の言い分も気にかかる、
公平に物事を観察したい、そういうカメラマンの心情が僕の中に入ってくるのだ。


そしてこのカメラマンは、吹奏楽部員ではない。
何かこう、記録係のような、しかし実際のところはそんな人員はいなくて、
だから「この青春ストーリーを見ていた、時の記憶」とでもいうべき抽象的な、
神でもあり空気でもあるような、実在しない存在、
つまりそのカメラマンというのは視聴者なのだ。
この感覚、カメラマンが存在し、そしてそれは私であり、
私が今、彼女らと同じ場所にいるのだという感覚は、
P41の最後のほうに書かれている、ドキュメンタリータッチへの言及で
僕としては裏づけされたと思っている。
そしてイコール、カメラマンはこの作品を作った製作者たちでもあるのだろう。

石原:「元々、この作品はドキュメンタリータッチでやりたいという思いも

あったんですよ。 〜中略〜 彼ら、彼女らの演奏を観ているだけで、

十分感動できるんですよ。」

P29で小黒氏が、カメラマンの存在を意識してしまい、
感情移入しづらくなるのではと危惧されているが
その部分は僕にはちょっと理解しづらい。
というのは、そのカメラマン、ファインダーを覗いているのが
まぎれもない自分なのだと、僕などは思ってしまったからだ。
目の前の女の子を、表現者の目線で見ていた記憶が呼び戻されるのだ。
その女の子を作品仕立てで残したい、そういう気持ちが甦るのだ。

オールドレンズ(P18)

なぜオールドレンズ効果を使うのか。
ちょっと脱線するが、2016秋に見ていた他のアニメで
色収差効果をやたら多用していた作品があって、
それを見ているとどうにも気が立って仕方がなかった。
なぜその場面で色収差なのか、理由付けがあまりにもなかったからだと思う。
目新しいことをしなくてはならなかったのかもしれない。
おしゃれだと思ったのかもしれない。
しかしあまりにも意味がなさ過ぎた。


しかし、「ユーフォ2」のオールドレンズ効果には感動した。
ポリシーを感じ取れたからだ。


実は人間の目というものは怖ろしいほど高性能である
(脳での画像解析を含めての話だが)。
人間の目を超えるカメラは今のところ、ないのだ。
P24で石原氏の言う、最近の高性能カメラがクリアすぎて
リアルではない、というのは、だから本当は当たっていないと僕は思う。
リアルタイムで人間が見ている映像は、
なんのフィルターもかかっていない、クリアなものだと
僕は考えているからだ
(これについては石原氏もP32冒頭で同様のことを発言している)。


それを踏まえたうえで、ではオールドレンズ効果とは何ぞや、というと
これは記憶というフィルターなのではないだろうか。


記憶というと懐古的な印象があるが、そんなセピアな意味だけではない。
「ついさっき」であっても過ぎ去ってしまえば過去であり、
その過去を記録してあるのは記憶というメディアなのだから
「今よりも前」であればそれらはすべて「記憶」といっていいと思う。
写真のカラーマッチングを気にする人なら
「記憶色」という言葉をご存じだろう。
そこで使われる「記憶」という言葉と同じ意味だ。


また、それが他者から語られればレンズの甘さはもっと大きくなる。
年月の経過に耐えうるエピソードであれば、周辺はさらに盛大に甘くなるだろう。
つまりこうだ。
その事件が、カメラマンだけでなくそこに居合わせた者達に共有され、
そして将来、同窓会などのふとした折の思い出話に乗るようなエピソードであればあるほど
オールドレンズ効果がふさわしいのではないか、と。


さて、二線ボケの説明のところ(P19)で秀一の髪が二線ボケしているが、
この髪のボケ具合だと、両目にピントがきているのはどうも不自然である。
この場合、片方の目にだけピントをこさせたほうがいいのではないか。
ではどちらの目に? という時に
絵の全体のバランス、なぜ右目?なぜ左目?ということを考えながら
映像の「意味」を作っていくのだと思うのだが、
この秀一の絵では右目にも左目にも決めきれておらず、中途半端な印象がある。
同じように右目左目の不満があったのは「ユーフォニアム(無印)」のOPで
カメラが久美子の右目に吸い込まれるシーンだった。
なぜ右目なのか、なぜ片方の眼なのか。
目に吸い込まれる演出をしたいなら、
それがどうして片方の眼になるのか、について説得できる絵の流れに
するべきだったのではないかと思う。

手ブレについて(P19)

最近ではジンバル手持ちの動画も増えているが、それらとはちょっと違う。
手ブレはカメラマンの呼吸であり、鼓動だ。
だからうまく使われると、すごく没入感、ヴァーチャルリアリティがある。

最終回、チューニングシーン(P21)

オールドレンズ効果を考えると、このカットも
「誰かの記憶の一部」というニュアンスを感じる。


この絵の構成として、不安を抱える後藤をやや不安定なアングルで、
それを見上げる長瀬の表情は正面からしっかりと描きたい、
それを両立させる構成がこの絵だったのだと思うが、
後藤は背が高いキャラであり、
彼を見下ろせる人物(カメラマン?)は本来いないはずである。
つまりこれは神視点であるといえるのではないだろうか。
そして、神=「コンクール」という概念、が見た記憶、と感じ取れるのだ。


同じく最終回についての考察、
露出がオーバー気味になっているのは
輝いた場所、というよりも
その露出差にラチチュードが追い付かない、
魔法がかかったような特別な空間、というための表現として強く働いていると思う。
下の絵のセーラー服の白にもその効果がある。


ホコリについては、それが細かい光点として
美しさの追加に使われていると書かれているが、僕はそうは感じない。
ホコリが浮き出るような硬い光線、
それによるジリジリと焼かれるようなあの感じ、
僕は、舞台の特殊な空気を表現するものだと思ったのだが違うだろうか。
それこそ、どんなジャンルにせよ舞台に上がった経験を持つ者には、
記憶の揺り起こしになっているのではないだろうか。






以上、誌面に合わせて思うところを書いてきたが、
本をお持ちでない人にはさっぱりわからなかったと思う。申し訳ありません。

影技法とは関係ないけど百合についても話されているので百合について。

久美子の、「命を落としても構わない」は百合なのだろうか?
僕は、麗奈の「懸命さ、ひたむきさ」といったものに対する従属、
「自分はそちら側の人間です」と忠誠を誓う感じの、
ある意味一種の中二病として捉えていたのだけれども。

麗奈には好きな男性がいるし、久美子も秀一を強く意識しているあたり、
この二人は男女の恋愛という様式に、強烈に縛られている感じがする。
だからこの二人がわかりあう仕草は、
そもそも互いに、性的な女性を求める行為ではないと思うのだ。
むしろ、男女の恋愛行動の予行演習なんじゃないかとも思う。
または、相手に自分を投影した、自己愛に近いのかもしれない。
もっともそれはそれでガチのリアル百合の様式なのかもしれないから、
「久美子と麗奈は百合じゃない!」というわけではないけれど……。
ただ、百合だ百合だと騒ぐことではないような気がするのだ……。
でも作った人が百合だというんだから百合なんだよねきっと。  (おしまい)