図工の先生のこと

お正月に友人から、うちの子へのお年玉代わりに児童書をいただいた。
その本を見て驚いた。
僕の、小学校の時の図工の先生の著書だったからである。
先生が児童書の作家になられている事は、しばらく前に知っていた。
小学校の同級生だった(別の)知人が教えてくれ、
その時にその著作も一冊、送ってもらっていたのだ。
だから今回驚いたのは、「感動の再会」だからではない。
児童書をくれようとして、どうして幾千もの中からその本が選ばれて
我が家にやってきたのかわからなかったからだ。
聞けば、Amazonのランキングで上位だったとの事で
なるほど、そんなにすごい人になっていたんだなぁと
改めて感心したと同時に、
それなら我が家にやってきたのも不思議はないのかもな、と思った。
そんな不思議なご縁だけど
しかし僕にとっては小学校生活はあまり思い出したくない事なのだ。
中学受験をやっていていろいろと歯車のずれた日常を送っていたし
家族というものの大事さが無視された生活だったし
虐められていたし、結果、成就しなかったし。
僕は、図工が好きだった。
写実的な技術ではクラスで一番上手いと思っていた。
立体物はあまり得意じゃなかったけれど
展開図を作ってボール紙で何かを作る作業は得意だったし
エッジを効かせて折りあげたり、
はみ出さずに糊付けしたりする事にかけては
同級生とはレベルが違うと思っていた。
要するに、かわいくない子供だったのだ。
僕の図工の作品は、あまり評価されなかった。
大人が子供に求める(求めたい)要素である
「伸び伸びとした」「おおらかな」「思い切りのいい」
ところがあまりなかったからだと思う。
先生の事は嫌いじゃなかった。
ある日の図工の時間、課題は図工展のための工作で、
たしか「体育会の私たち」だったか、
ボール紙の立体人形を各自作ってそれを大集合させ、
一大群像展示物を作ろうという事になっていた。
僕は、自分の人形を早々に作り上げた。
他の者と差をつけるべく、
胴体には曲面を取り入れたりもした。
授業は二コマ連結の2時間で
ずいぶん時間が余ってしまったので
僕は次に、ボール紙で
ウルトラマンタロウ」に出てくる戦闘機を作り始めた。
機首が3次元曲線になっていて、
その部分の展開図をどう書いたらいいか、悩んでいた。
そうしたら、先生に怒られた。
どんな言葉で、どんなふうに怒られたのかは覚えていない。
でも、相当怒られた。
ぼくはかなり凹んでしまった。
自分が悪い事は承知していたと思う。
授業中に、「オモチャ」を作っていたのだから。
でも、自分のするべき事はやった上での事だったし、
図工の時間という特別な空間が
大目に見てくれるような気がしていた。
授業が終わる頃、先生は皆の仕上がり具合を確認し始めた。
僕には理解できなかったがまだ完成していない者がゴロゴロいた。
先生は僕の人形を見て、「なんや、できとるんやないか」と言った。
あの頃先生はまだ若かったはずで、
だから「なんや、できとるんやないか」は
それを見抜かずに叱った事への照れ隠しだったのかもしれない。
でも小学生の僕はそれを聞いて
「そうだ、僕はもうちゃんと作っちゃっていたんだ。
 みんなよりぜんぜん早く、みんなよりきれいにうまく作った。
 どうしてその事を見る前に、僕を怒ったの?」と、
心に暗い火を灯した。
と同時に、僕は自分が
「図工が上手い子」とは認知されていなかった事にも気がついたのだ。
「上手い子」と認知されていれば、
「あいつならもう完成しているかもしれない」と
先生も思い至るはずである、と。
その展示物の完成品を、僕は結局見なかった。
つまり図工展にも行かなかったという事になる。
病気かもしれないし、中学受験のための何かかもしれない。
図工展の後、校舎の中央入り口横のショーウインドウに
展示されていたのを見つけて駆け寄ったが
防犯柵が降りていたのであまりよく見れなかった。
次に行った時には展示は終わっていた。
僕は図工が好きだったのだ。
当時の僕の恨みは、
今から考えれば他愛もない小学生の独善的なワガママであって、
もちろん暗い火もとうに鎮火済みだ。
むしろ、当時のうら若い先生に対して
失礼ながら、かわいらしさを感じさえする。
今回、友人から児童書をもらって、
僕は小学校の卒業写真を見直してみた。
先生が写っているかなと思ったのだ。
女房と子供に、「これがその本を書いた人だよ」と
見せたいなと思った。
校舎の屋上から撮られた俯瞰の集合写真の中で、
受験で歪んだ嫌な目つきをした僕の横に
図工の先生は立っていた。
図工の先生だから定位置というものはなかったのかもしれない。
僕の横というのも、偶然の色合いが濃い。
しかし、何か偶然ではないものがあったなら、
偶然ではないものがあったと考える方が、
ふふっと笑える楽しいことのような気がするのだ。