ただしイケメンに限る

http://nanapi.jp/topics/68
http://sinseihikikomori.blogspot.com/2011/11/google.html
http://d.hatena.ne.jp/nakamurabashi/20111124/1322071507
これらの記事にインスピレーションを受けたというわけでもないのだが
やっぱり書いておかなくちゃなと思うので、
僕は僕がこの歳になって痛感している事を書いておこうと思う。
昔の僕は漫画やアニメのヒロインに恋してた事もあったけど、最近はそうでもない。
それはなぜかというと僕が歳を取ってしまったからなのだと思う。
……歳を取って次元の違いについていけなくなったとか
幼稚なエンタテイメントを卒業したとかそういう事ではなくて
僕の、漫画やアニメにおける嗜好が変わってしまったのだ。
具体的に言うと、容姿に恵まれたキャラが
実力勝負をする事を、どうにも受け入れ難くなってきた。
たぶん(想像上の世界に対する!)嫉みも込みで。
昨今の漫画やアニメでは、
主人公が不細工・もしくは凡庸では成り立たないストーリーが多過ぎる。
であるのにそれを視聴者に無理やり許容させているというその不条理が、
僕に不信感を抱かせるのだ。
どこか疑いつつ視聴するから、僕の中では
キャラクターが「お人形」を脱しきれない。
容姿に長けていれば、普通何をやってもうまくいく。
うまくいかないわけがないし、
逆説的にはどうやったら孤独でいられるか、
うまくいかさせないためにはどうしたらいいか、
それが作者の腕の見せ所となるのではないかと僕は思う。
ところが昨今の綺麗な顔のキャラクターは、
綺麗な顔をしているくせに、
大切なのは精神だと、いけしゃあしゃあと言ってのける。
まるでそこにこそ、そこにだけ価値があるんだと、
自分は精神の価値を重んずる世界に生きているんだと言わんばかりに。
作品中で彼らは、ぐしゃぐしゃに歪んだ顔を描かれる事がある。
打ちのめされたり、悲劇に襲われたり。
「極限に近い精神状態」に置かれる事で彼ら彼女らは、
「人間臭さ」を表現するように描かれる。 汗や涙を伴って。
しかし本当は彼らは、そんな努力なんかしなくてもいいポジションなのだ。
その努力は、苦しみは、演じさせられているだけなのだ。
本人たちは苦しんでいるつもりかもしれないが、
彼らの汗は、臭わない。
今の多くの漫画のキャラクター達の流す汗は、
汗腺から分泌された物ではない。
そもそも彼らには、汗腺などという
見た目の悪い無価値な器官は備わっていない事だろう。
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輝く汗が美しいというのは、
努力や根性という目に見えない物を
汗という物質に反映して語らせた言い回しに過ぎない。
汗は、排泄物だ。
排泄物は本質的には汚い、という感覚が普通である世の中だからこそ
「汗は美しい」というフレーズがひねくれた表現として成り立つのであって、
全人類が本気で輝く汗は美しいと思っているわけはない。
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彼らの汗はただの記号、効果だ。
制作者が「はいここで汗!」と考えた通りに付けられた、
デコレーション用のラインストーンでしかない。
お好きなんでしょう?
こういうのが。こういうのが。こういうのが。

見くびられているのだ。
舐められているのだ。
飼われているのだ。
そうした制作者の思惑に、自分の浅ましさに、
一部の視聴者は気付きながらしかし身を委ねる。
失う物もあるがしかし、それを上回る生理的な快感もあるからだろう。
そういった、欲望を充足させるオナペットとしての作品キャラクターは
綺麗なところだけを集めた都合のいいお人形だ。
彼らは、自らがお人形である事を受け入れているだろうか。
いや、そんな下卑た事はするわけがない。
そんな堕落とは無関係でいる事が、彼らに求められるキャラクター性だからだ。
ではそうした堕落を拒否する崇高な立ち位置は自然な振る舞いなのかというと
需要に対してサービスする存在意義を無意識下に埋め込まれた結果であって、
誰かの意図に沿ったものなのだ、やはり。
その奴隷のようなポジションを、
美しい外見、人々からの賛美、自己満足できる正当性、等と引き換えに受け入れているならば
どんなに否定しようともやはり、人々の玩具である事を選択した事になる。
筒井康隆センセの作品で「20000トンの精液」というのがある。
溺死だろ。