東北地方太平洋沖地震

■一昨日、東北地方太平洋沖地震があって
うちは東京だからそれなりには騒いだけれど、直接的な被害は無いも同然だった。
もっとも福島原発がどうなるかわからないし、
週明けには二次的な影響を受けて生活や仕事に支障が出るかもしれないし、
大局的には日本経済という括りで損失があるのは間違いないのだけれど。
今は、テレビをつけながら家の中で生活している。
余震などまだ予断を許さない状況であるし、原発も心配だし。
テレビがバラエティを流さない事と同じく
今の日本国民には、何かに備えて、また楽しむ事を自粛して神妙にしておこうという意識が
自然と働いているのではないかと思う。

震源地、それに震源地に近い所にいた人々は死傷したり、生活のほぼ全てを失ったりと
とても痛ましい事になっている。
でも我が家では、三度の食事はほぼ平常どおり取れている。
こんな時に、遠方には辛い人達がいるのに、こんなにも普通の食事をしていいのだろうか。
そうは思うのだけれど、だからといって今この状況で僕が敢えて乾パンを食べて暮らす事が
何かとても素晴らしい事であるはずも無いのだ。
鎮魂という気持ちは大事だけれど。
この文章を揚げる事は、それによる免罪符のつもりじゃない。
痛みのわかってる人間ですと、吹聴するつもりでもない。
書かずにいられない、というわけでもないのだけれど、
あえて分析するなら自分自身への疑問の提示だろうか。
僕には子供がいる。
その、子供達の未来が一番気がかりだ。
「気がかりだ」と書く事で親父の尊厳とかを保とうとするつもりはないのだけれど。
むしろ、自分の無力さを重く認識させられるのだけれど。
僕は無力だったと吐露する事が、未来の世代の教訓になれば。