21世紀の工業製品たる物

■朝、鞄からボールペンを取り出そうとしたら
盛大にインクが漏れていて、
鞄のポケットの中や一緒に入れておいた物達が
インクまみれになっていた。
げんなりして、のろのろと始末しながら考える、
なぜこんな事になったのか。
たぶん、僕がペンの芯をしまい忘れたからだと思う
(ノック式と言うのだろうか?)。
しかし、しかしだ。
芯を出しっぱなしでほったらかす事など
珍しくもない事なのではないのか?
僕の会社は筆記具が散乱していて
なおかつルーズな従業員ばかりだから
僕の感覚が麻痺しているんだろうか。
その程度の事で汚染…を撒き散らされても困る、
というのが率直な気持ちだ。
実は今までにもこんな風にインクを漏らした事が一度ある。
逆に言えば一度しかないのだが
その時のボールペンと今回のボールペンは同一銘柄である。
いわゆる大手文具配達サービスの商品で
製造はアジアの人件費の安い国だと思われる。
ボールペンは各社しのぎを削る商品だろうから
一本20円とか30円とか、そんな単位で売られている物だろう。
記憶を辿っても、他のボールペンがこんな事になった覚えはない。
もっともたまたま、漏れる要因が重なったのかもしれない。
ボールが鞄の生地と密着し、
位置関係が毛細管現象に適したものだったとか
その日の温度、湿度とか
インクの減り具合がちょうどよかったとか。
しかしボールペンのインクって、
ボールが回る事によって最小限の分量が
引き出される物ではなかったか。
だからこそCMでも書き味より寿命の長さが
うたわれるのではないのだろうか。
そこが万年筆との違いだと思うのだが。
邪推ではあるが、
安価な…度を越した安価なボールペンは
インクの質が悪い、ボールの精度が低いなどの理由で
ボールとシリンダー?とのクリアランスが
かなり広くとってあるのではないだろうか。
まぁ、あくまでも今日の日本の水準からすれば、であるが。
うちの会社で使っているこの文具宅配ブランドの商品には
品質不足を感じる事がたまにある。
ボールペン式の修正液はペン先がすぐダメになるし、
セロテープはスコッチテープよりちょっとマシ程度の強度しかない。
品質が低いと気付いたのはここ最近の事で、
気付いた頃にはこの文具の調達システムは
もうすっかり業務に溶け込んでいた。
買い過ぎや乱用を助長するから、
コストは実はそれほど下がらないと思うが
なにしろ一見便利なので
低品質に気付いても、
だらだらと使い続けるオフィスは多いだろう。
末端の従業員が不満を持ったところで
管理職にある者の意識が低ければ聞き入れてはもらえない。
そんな事を考えていたのだが、
なんとなく違和感を感じた。
昔…そう、せめてバブル以前の話をしたいんだけど、
世の中、こんな安っぽい筆記具を使っていたっけ?
もちろんBicのボールペンや、
「見える、見える」のゼブラボールペンに代表されるように
使い捨てのボールペンは事務用に重宝されていた。
だが、ふとした折りに大人が内ポケットから取り出すペンは
金銀のメタル調であったり
オークっぽい木目だったり
そして女性はサンゴ色や花柄、蝶の模様の物など、
婦人用とわかる物を使っていたような気がする。
つまり生活の中で使うものであっても
機能以上の意匠にこだわって…
いや、こだわるというのではなく、
本来の意味で「ちゃんと」していたのではないだろうか。
パーソナルな部分を大事にしていたとも言えよう。
非常に素敵な事である。
ではなぜ今の人は…いや僕は、ちゃんとした筆記具を持たずに、
つまらない使い捨てのボールペンなんぞを使っているのか。
まず、会社の備品であるから無償で支給されている事がある
(僕の仕事は会社のビルを離れたところでも
場所を選ばず行われるので、横領で咎められるのは勘弁してほしい)。
そして、書き記すという目的は安価なボールペンでも達成できてしまう。
また、人は物をなくす。
高価なペンを携帯するのはリスキーである。
さらに、芯の交換が面倒・手に入れにくい事もある。
500円から千円程度で、少し質感のよい、
しかし使い捨てのボールペンもあるが、中途半端にもったいない。
そして。僕はあまり厭わないが、
一般よりも高価な物を使うという事は、
それ自体が意味を持ってしまうという事もある。
…意味を持つゆえに、接客の場では
高級ボールペンがたまに登場するのだが…。
自分がそこで署名した、何かを書き記した、
その動作に対する他人の記憶を希薄にしたがるのが
スマートに属するほうの現代人で、
シンプル・すっきりしたデザイン、というテイストが
こんなにもてはやされるのも
キレイ系ホワイトやオフホワイトが重宝されるのも、
「害のない雰囲気で、必要以上に記憶されない・くどくない」
からではないだろうか。
だがそういうスタイルで生きていくというのは
自分の人生を溶かしてしまっているようなものだ。
日本はあいかわらず右へ習え的なところがあるけれど
それでもようやっと、昨今のブログ人気のように
自己発信型の文化が広まりつつある。
私という人間を認識してほしい、という意識が高まっている。
アンダーグラウンドからポップカルチャーに出世した勢いで
世の中の「皆と同じでちょっとだけ違うのが一番安心」という
何かに属する・俗する大行進を、少しずつでいいから変えていってほしい。
で、どうまとめるかというと、
そのうちちゃんとしようと思っています、という事なのだ。