世代と物の値打ち

■仕事で、劇場のある地下鉄の駅を降りた。
改札を抜けて地上へのコンコースで、一人の老婆を追い抜いた。
不自由、と言うにはあたらないが、おそらく足が衰えきっているのだろう、
全然前に進んでいないかのような歩調だった。
少し急いでいた事もあって、それほど気にとめずに地上へ出て、
僕は5〜10分ほどで用事を済ませ、またその駅に戻った。
その途中、さっきの老婆と今度はすれ違ったのだった。
今度はさすがに僕は立ち止まってしまった。
しかし何をどうするというのだ。
おんぶするのか?いきなり知らない者が、しかもその人の人生でたった50m程だけを?
何もできないのだった。
その人は僕の数十倍の時間をかけて同じ仕事量をしなくちゃいけない。
それが可哀想な事かどうかは分からない。
その年齢にしてやっと、物事とゆっくり向き合えるのかも知れないからだ。
老化はハンディキャップではない。
だからその人が嘆く必要は全くない。
だけれどしかし、僕達…いや、僕が、
看過していいかどうかは別の問題だ。
前述のように僕なんかには何もできない。
「僕はあなたの事を見ています」
「僕は、あなたの事を知っています」
なんていう、そんな事はその人に何の足しにもならない。
僕がその人の生きざまに対して何もできないならば
せめて僕がその人によって成長しようと思うのだが、
僕はその人の、その歩く姿を見て
いったい何を得ればいいのだろうか。
人は必ず老いる。その時に、どうありたいか。
何を考えて時と向き合うべきなのか。
■朝、取引先に行く前に、缶コーヒーを買って小さな公園で煙草を吸った。
ちょっと一服したかったのだが喫茶店だと大仰だし、
喫煙できるコーヒーショップやハンバーガーショップが近くになかったのだ。
甘ったるいコーヒーを飲みながら考えた。
海外には缶コーヒーの自動販売機はあまりない。
街角に手軽なコーヒーショップがあるからだと思うが、
そこでのコーヒー一杯はいくらぐらいなんだろう。
愛煙家が、外を歩いている時の喫煙場所を
全てコーヒーという物に対価を払ってまかなうとすれば、
僕の感覚ではドトールなんかの200円ぐらいが、
嗜好品としてではない、生活必需品としての適正価格に思えるのだが。
原価や固定費を考えてもそのぐらいで提供してほしいものである
(ただし、豊かな時間を過ごすための環境を整えた場合はもっと高くてしかるべきだ)。
例えば僕が、200円でコーヒーを入れてくれと頼まれたら
妥当だと思うと思うのだ。
さて、そこで昨今のIT機器の値段だが、どう考えても安すぎる。
ロイヤリティとかリベートとかが作用し、
人件費の安い国で大量生産されているにしても、だ。
もちろん僕だって安いほうがうれしいし
余計に払いたいわけではないんだが、納得できないのは
価格による消費者の選別、差別、ふるい落としが全く行われていない点だ。
携帯電話を例に挙げると、普通に考えれば
端末の値段はあんなもんじゃないだろう。
それが誰にでも手に入れやすい価格なのは
国単位でのインフラの整備でもあるかもしれないが、
そこから派生する産業が莫大であり、期待値が高いからだ。
確かに結果として国は物質的にも精神的にも豊かになるかもしれない。
しかしそれは画策された、ある種偽りの豊かさであり、
個人の資質によって勝ち得た豊かさではないのだ。
現在日本で携帯電話を利用しているユーザーのどれほどが、
携帯キャリアのコストダウン(コスト他方転嫁)システムに
頼らない形で携帯電話を利用できるだろうか
おそらく一般大衆のほとんどが無理だろう。
つまり今の社会の構図という物はいい夢を見せられているようなもので、
これはどこかで聞いた事があると思ったらマトリックスなのだった。

つけ加えるならば、カードを媒介にしたゲームで
カードその物に優劣が設定されていて、
レアカードにはうんざりするようなプレミア価格がついている物があるが、
あれなどは夢も夢、その最たる物だと思う。
生産企業が無尽蔵に、無から価値を産み出しているわけで、
まさに錬金術以外の何物でもないと思うのだが。