二百三高地を見た。

今「坂の上の雲」を読んでいるのだが、旅順の要塞を落としたところまで読み進んだので
映画「二百三高地」を見てみた。
3時間を越える昭和55年の大作である。
見終わっての第一印象として、確かに大作ではあるのだが
こりゃこのころの邦画は見下されて当然だな、と思った。
なにより、説明不足過ぎる。
以下は「坂の上の雲」を読んでの知識しかない僕の所感だが、
まず日本が戦争に突入するに至った国家としての心情の描写がない。
冒頭の街頭演説のシーンで開戦派と厭戦派の小競り合いがあったが、
勝っても負けてもどちらに転んでも実のないような空しい戦争であることを知りながら、
やむを得ず「講和」を目標にして宣戦布告するという、その理由付けが説明されていないと
この戦いの空しさはわからないと思うのだ。
次に、児玉総参謀長の感情の爆発が少なかったことが、どうにも物足りない。
挿入されているエピソードから、「坂の上の雲」が脚本のベースになっているのは明らかだが、
そのわりには第三軍司令部の描き方がソフトであり、ゆえに対極としての児玉が光らない。
後世の「乃木将軍」の人気のせいか仲代達矢に気を使ったせいなのか、
それともラストの、崩れ落ちる乃木司令官のシーンをクライマックスとするためなのか。
いずれにせよ、どうにも中途半端な感じである。
そして何より、この映画の主題歌である「防人の詩」の使われ方が相当苦しい。
昭和55年当時、僕はさだまさし氏のファンで、
防人の詩」が揶揄されるのを憎々しく思っていたぐらいなのだが
(しかし当時「二百三高地」は見なかった。「翔べイカロスの翼」は見たけれど」)、
そんな、この曲に対して肯定的な僕でも、この映画での使われ方には疑問を持つ。
さだ氏がこの曲を作るにあたって、二百三高地のことを調べなかったとは思えない。
だから問題はやはり映画スタッフ側の、曲の使い方なのだと思う。
率直に言って、映画と曲のテーマが合っていない。
この使い方は、年寄りが、何もわかろうとせず、感動したつもりで使っているだけのように見える。
防人の詩」の歌詞は、僕なりの解釈では、
遠く離れた、自分が守りたい命や故郷の風景は、
その寿命を越えた先で、朽ちて消滅するのだろうか、
それが自然の理であるけれど…、ということのような気がしていた。
だがそれは決して、自分がそれらを守ることへの空しさには結びついていない。
逆に反語として、そういう儚いものであってもそれを守りたい、ということだろうとも思っていた。
つまり、守って死ぬことは空しいことではないと、だから「防人」のうたなんだと、僕はそう思うのだが、
なぜそれを空しい戦死者を出した旅順攻囲戦の映画で使うのか、それが理解できない。
言い訳のようにあおい輝彦や乃木司令官の息子のエピソードを入れているが、それは「個」である。
大局的に見れば、どう考えても「仲間による空しい虐殺」だったのだ。
この映画のサブタイトルには「愛は死にますか」と付いている。
主人公を乃木司令官として見たとき、「愛は死にますか」はないんじゃないか。
おそらく製作者たちが、変に「戦争反対」の方向へ持っていこうとしたのだろうが、
作品としてまったくもって納得できない。
防人の詩」のwikipediaを、僕はまだ見ていない。
このテキストをアップしたら、ちょっと見てみようと思う。
その結果、思うところがあったらまた追記する。


追記:「防人の詩」のwikipediaを見てみた。
そういえば反戦か戦争美化かという点はまったく気にしていなかった。
さだまさし氏は、強烈な反戦主義者だったと思う。
だから戦争美化、肯定の詩など歌うはずがない。
では「防人の詩」はどういう風に戦争に反対しているのだろう。
この曲の題名が「生命」だとか「時間」とかならわかるのだが、
「防人」だというところが、僕には解釈しきれないところなのだ。