アド・バード

■「アド・バード」椎名 誠(著)
2010年ももう3月となってしまった。
じきに彼岸となり、また年度も新しくなるとあって、書きそびれているレビューを書いてしまう事にする。
この「アド・バード」を読んだのは去年の年末。
実はレビューも数行は書いたのだが、のろのろしている間にお蔵入りしてしまった、というかデータがどこかに行った。
たった数行とはいえ、一度書いたテキストをまた書くのは億劫極まりないが、
まぁたいした文章を書くわけでもなし。
椎名氏は SF に詳しいようで、氏からすると僕なんかは素人もいいトコ、発言権も持ってないような存在であり、
だから SF 的見地からレビューを書くなんて事は無理だし、そう考える事すら非常に大それた事である。
だから論理立てて語るのは難しいが、感じたままを書いていく事にしよう。
日本 SF 大賞をとったというこの物語は、なんだかとても「あの頃の SF」という感じがする。
少年達のロードムービー的な進行は、その物語中に寄り道が多いのだが
その寄り道は必ずしも物語の最終ステージに繋がっているものではなく、
作品のスケール感を増幅させるために語られるものだったりして、
現代の、構造上ムダのない──つまりはゆとりのない──物語の作られ方に慣れた身には
少しまだるっこしく感じられたりもした。
結末に帰結しないというところではまた、いったいどこが結末だったのかも判然としない。
巨大な鳥はそれまでの広告媒体達の頂点を示唆したイメージなのかもしれず、
それに少年達が乗り込んで空に舞い上がる様は確かに大団円的なラストシーンとして絵になるけれど
実際には移動手段としてしか使われておらず、ビジュアル先行な感が否めないと思うのだ。
ただ、「こういった感じ」の映画や小説は以前、確実に1ジャンルとして存在していたから
それがいいとか悪いとかいう話でもないのだろう。
「鳥」が機能商品のように描かれる作品として秀逸だと僕が思うのは
筒井康隆の「ジャップ鳥」だ(実際には鳥自身は機能しているわけではないが)。
あの作品では、モチーフが鳥でなければならなかったと思う。
「アド・バード」ではさまざまな物が広告媒体に変えられているが、
なぜその中で「鳥」だけがピックアップされ、タイトルにまでなっているのだろう。そこがよくわからない。
確かに鳥というモチーフはちょっと「哀しい」。
また群れを成せば心象的な風景ともなり、おどろおどろしさもある。
しかしやはり説得力には欠けるようで、
「アド・バード」という小説を読みながら、物語中に「アド・バード」要素を探す好奇心は
どうにも満たされなかったように思う。
読む側の思い込みがいろいろと作用してしまう事を考えると、
この「アド・バード」も、違うタイトルだったらよかったのかもしれない、少なくとも僕にとっては。