蟹工船・党生活者

■「蟹工船・党生活者」小林 多喜二(著)
この本がブームになったのは、調べてみると 2008 年つまり去年の事らしい。
折りから注目されだした「ワーキングプア」という概念にマッチする小説として再度脚光を浴び、
2008 年の流行語大賞のノミネートの中にも名を連ねている。

僕が巡回するインターネット掲示板でもしばしば比喩として使われる事があったので
その意味するところを理解しておかなくては、とずっと気に留めていたのだが
今回やっと読む運びとなった。

さて内容であるが、僕にはどうも作品の趣旨を読み取る事が困難であった。
物語としては資本主義における搾取、不平等、劣悪な労働環境等を描いているのだが、
「こんなひどい事があった」「こんなひどい奴がいた」という
事象の羅列を以て何が言いたいのかと考えると、
「我慢できない」「許せない」「やっていられない」という感情以上の物を読み取れないのだ。

ストライキをするのは結構だけれど、どうも何かが引っ掛かる。
彼らには、「乗らない」という選択肢もあったはず、と思うからである。
序盤には生活苦から幼い子供を船に乗せざるを得ない親の描写もあるが、
そういった困窮の状態であればもうそれは非常事態なわけで、
例えば戦争などと同じくその場合の怒りの矛先は
「国家」や「時代」に向けられるべきだと思うのである。
しかし本作品ではそうではなく、怒りは搾取している浅川監督へ向けられる。
搾取している、とはいうが実はその浅川監督にしたところでブルジョワジーではなく、
やや上の階級の労働者に過ぎない。
その事は、当然小林多喜二もわかっているはずだ、と現代の読者感覚では思うのだが、
とすると話の流れがおかしい。最後のストライキの成功に「虚しさ」があまりこめられていない。
「本当の敵は浅川ではない」的な描写がない。

もしかして、小林多喜二としては本気で
「浅川監督=ブルジョワジー」という気持ちで書いているのだろうか。
そうだとしたら……ずいぶん視野を狭めて書いていないだろうか?

ちっぽけな船の上でストライキを成功させたところで他の船での搾取は止まらない。
読者としては当然そこまで考えるわけだが、
蟹工船」はどうもそこから目を逸らしているように感じる。
本当の敵である「国家や時代」を直視せずに浅川監督をスケープゴートにしたのはつまり、
自分達の行動が実はとても無力であり、体制に影響など到底与えそうにない、
という事を認めると「負けてしまうから」だったのではないか。
「自分達は負けていない」「負けたつもりはない」、
そう言えば負けていない事になると本気で考えていたのではないか。

これは同文庫に収録の「党生活者」の方に特に顕著なのであるが、
(大局的に)無駄な戦いを続ける非合理性、またその虚しさを描いているにも拘らず、
それらを無視して「我々はいつか勝利するのだ」とシュプレヒコールをあげている。
その破滅的で分裂症のような作品の意図が、僕にはよくわからない。

そのシュプレヒコールが、決して報われる事のない悲しい叫びとして自虐的に描かれるならわかるが
どうも小林多喜二は本気で勝つ、勝ちたいと思っているようで、いったいこの小説はなんなのだ。

小林多喜二は日本の代表的なプロレタリア作家とされていて、
危険思想の持ち主として特高警察の拷問による死を迎えているけれども、
いったいどの立場に立って小説を書いていたのだろう?
自身の反体制のための思想をぶちまけようとしているのに、
時々、ともすれば水を差そうとする俯瞰からの観察が顔を出してしまっていたのだろうか。
いずれにせよ救いようのない矛盾、支離滅裂さが存在し、
こんな中途半端な状態で拷問死させられたのではちょっとかわいそうなぐらいだ。

社会主義、その考え方自体はもちろんあっていいのだが、
この小説の中で語られるそれは、あまりにも舞台が小さすぎる。
これ見よがしに描かれた独善的なその舞台は、もはや喜劇ですらある。
それでも勇敢に戦って死ぬ事が大切だと思うなら独りで、いや同志達とそうするがいいが、
それに共感するには現代はもっとリアルな問題を抱え込んでいる。

経済や世相を理解しようとこれを読んでも何の得にもならない。何の参考にもならない。
現代において読むならこれはただの娯楽作品だ。
娯楽作品としても、僕はちょっと出来が悪いと思うけれど、
パニック映画のように楽しむのであれば、まずまずだろうか。