見よ 月が後を追う

■「見よ 月が後を追う」丸山 健二 (著)
ネット上の書評を読んで気になり、図書館から借りてきて読んでみた一冊。
僕は丸山健二の著書を読んだ事はなく、
したがってこの本の文体、それに調子が氏の特有の物なのかどうかはわからない。
だからこのレビューはこの本一冊に対する物であり、
氏の著書を通した流れの上でのレビューとはなりえない事をおわかりいただきたい。
普段聞きなれない言葉を駆使して綴られる文章は、
一見とてもとっつきにくい印象を受ける。
詩人の紡ぐ物語のようなリズムを持つ文章は、
しかし流麗な美しい事だけを見せ付けるのではなく、
むしろ世の汚らしい物を認識しろと迫ってくるようだ。
難しい言葉を使っていても非常にわかりやすく、
そしてその文章を理解したいと僕に思わせるのは
その文章が高度に精製された清らかさを持っているからかもしれない。
そして一行ごとの短い文章がなぜ僕を引き付けるかといえば
それが同胞である氏から読者に向けた「お前はそれを見たか」という問いかけであり
それに「あぁ、私もそれを見た」と答える事が愉しいからなのではないだろうか。
ネタバレを含んでしまうが内容に関して書かないわけにもいかない。
主人公の種族が、そういう物語を誘ってしまうのか
この物語でも「事件」が起きてしまう。
そして「破滅」する。
その「破滅」は幸福な破滅と言ったほうがいいのかもしれないが、
いわゆる「昇華」型であり、
漫画・アニメ世代にはある種、陳腐な内容である。
それが悪いというわけではないし、
その事件と結末がなければ主人公の様々な言葉は存在し得ないのだから
一冊の本として成立するためには致し方ないのかもしれない。
だが、しかしそれでも「事件」などはそう起こりえる物ではないのだ。
万に一つの「事件」を待つのもまた惨めであり、
「事件」がなければ「動き得ない」のか、という事もまた命題なのではないだろうか。
僕の感じ方としては、違う。
漫画「ケンタウロスの伝説」中に登場する、
「スピードの中で 精神は肉体を超越する」という言葉、
意訳に過ぎるかもしれないが逆説的に捉えれば、
翼を持つ事で、肉体が燻った日常の中にいてさえ、
精神は翔ぶ事ができる、と僕は思うのだ
(※引用はしたが僕はケンタウロスの支持者ではない)。
とはいえ、この本のこの蒸留酒のような文章は
走る時に五感を鋭く働かせる者達にはとても愛されるのではないだろうか
人生の中で、どこへ走るのか
人生の中で、なぜ走るのか
人生の中でどう走るのか。
考えながら走っている同胞たちにはお薦めの一冊である。