桜とペプシのおまけ

東京東京都心では、今年の桜(ソメイヨシノ)がほぼ終わった。
先週既に見頃は過ぎていたのだが
一昨日の豪雨がとどめをさしたようである。
桜前線は南の方から北上してくるものだと思っていたら、
兵庫の母によるとあちらはまだ五分咲きだそうで
今年の気候はやはりどこかおかしいらしい。
僕の生活・通勤範囲には桜が多く
毎年、桜が咲き、散っていくまでを
日々眺める事ができるのがうれしいのだが
反面、改まって花見をするという気持ちになどなれなくもあって
なんだか世間の話題に乗り損ねたような、
ほんの少しの無念さも味わうのも毎年の事だ。
桜を「愛でる」という点においては
毎日の通勤途中に目を向けるというほうが
本質的には正しくあり粋な事であり、
いわゆる平成17年の花見スポットにおける花見客とは一線を画すものなのだ、と
つまらない虚栄心だかなんだかを納得させたりもするのだが
そんなふうに差別化される事を望む背景には
桜の花と同時に目に入る、場所取りや花見の意地汚い風景、
そして翌朝のただれて荒みきった同じ場所の惨状を
非常に苦々しく思う気持ちが働いているのだろう。
カラオケや発電機は、TPOに合致しているからいいのだ。
周辺住民は迷惑かもしれないが、
それらは所詮、そのカオスの中に収束するからである。
問題なのは、子供達の遊ぶ公園を昼間から占拠し
緋毛氈はコストの無駄とばかりに
桜の風景とはおよそ相いれないブルーシートを敷き詰め、
翌朝はゴミ箱の周りはゴミ袋の小山ができてしまうという、
到底、桜の花がある風景を大事にする人間がやったとは思えないその所業だ。
結局花などいらないのではないのか。
それをなんだって、みすぼらしい有様でみすぼらしい飲食をしているのか。
地べたで行われる、というのがまた人間の尊厳にちらちらと絡まって
憂慮を誘うのかもしれないな。