セカチュー(ネタバレ有)

■地上波放送の劇場版「世界の中心で、愛をさけぶ」。
録画したもののなかなか食指が動かず
DVDに落として長らく放置していたのだが
通勤中に見るソフトが尽きたのを期に
PSP用にダビングして見てみた。
のっけから嫌な予感はしていたのだ。
あらゆる要素が気持ちをくすぐりすぎるからである。
簡単に言ってしまえばベタだという事なのだが、
もっとこうなんて言うか、周到なマーケティングを経て作られたと言うか
コンピュータが弾き出したかのような隙のなさというか
(ツッコミどころがない、という意味ではない。
ラブストーリーの定番ネタ−と思える−エピソードが
あまりにも次から次へと繰り出されるため、突っ込む暇がないのだ)。
そして果たしてそれは、
全ての回想シーンが終わるまで続いたのだった。
朔は僕より少し年下だが、田舎町での話と考えると
ほとんど同世代と考えていいだろう。
つまりウォークマンIIであり、Wラジカセであり、
ディスクジョッキーである。
ターゲットもその辺であろう。
その頃の僕たちの妄想するところの恋愛が、
いやそのうちの一つが、
この「世界の中心で〜」なのではないかと思うのだ。
妄想っぽいと思わせるのは、回想シーンが
細切れの、いいシーンだけを繋げた作りだからかもしれない。
よりぬきサザエさんなのである。
上映時間の制約はあろうが、美しい思い出しかない事で
幻想っぼさ(…これは狙いなのか、テーマに合っている…)、
単刀直入に言えば都合のいい妄想っぼさが渦を巻いているのだ。
その、自分の自慰行為を見せ付けられるかのような居心地の悪さこそが
この作品のウィークポイントであり、
同時に高性能なオナペットでもあると僕は思う。
運命がこんなにもドラマティックな展開に終始するのは
亜紀に関してはまぁまだいいだろう。
彼女は要するに想像上の生き物だからだ。
しかしリツコは、いくらなんでも業を背負わされすぎなんじゃないのか。
リツコは最後のテープを配達した時点で
自分の分の後片付けは終えていると思うのだ。
さらに言えば事故にあった事で貸し借りなしでもある。
なぜ、婚約者の思い出に付き合わなければならないのか。
しかも到底勝ち目はないのだ。
鎮魂という解釈もあるかもしれないが
婚約者のそれに自分を合わせるには
過去のその愛の事象の理解者にならなくてはならず、
小学生の時点で有力な協力者であったリツコではあるが
それをもって、大人の、現在の恋愛当事者になっても
賛美しろというのは無理がある。
そもそも亜紀の彼が朔だと今になって知るというのが
全能の神である原作者に弄ばれている感アリアリである。
そこまで不幸であっていいのかと思う。
世の中年男性の嗜好に応えるベく、
朔と亜紀の幻想の物語を創り出し、
スパイスにリツコの不幸…いや、
現実世界でのパートナーの惜しみない理解を
男性側に都合よくそして罪悪感を持たなくて済むように組み込んだ、
そんな印象を僕はこの作品に持った。
その方向性は、オタク趣味の
美少女もの、ギャルゲーにも通じる気がする。
ただ違うのは、幻想のヒロイン亜紀が、完璧過ぎる事だろうか。
眩しいほどに輝いているそのキャラクターは
ほとんどの男子にとって理想であるが
同時に高嶺の花である事もわかり過ぎるほどわかっている。
長澤まさみが「タッチ」の南ちゃんを演じたと聞いても
あぁそうだろうね、と納得してしまう。
あぁそうか、あだち充の描くような美少女像なのかもしれないな。
髪のない姿の痛ましさを強調するために
ことさらに、元来が溌剌とした女の子にしたのかもしれないが
その突き落としっぷりも王道のさらに上をいく王道っぷりで
それもこれも亜紀を女神に昇華させるためのものであるから
失われている「リツコ視点」が余計に気にかかる。
この映画、カップルで見に行ったら相当嫌な感じだろう、
と僕は思うのだがそうでもないのかな。
僕が見たのはカットされてたかもしれないし、
テレビドラマ篇は細かいエピソードも入っているかもしれないから
この感想はあくまでも限定的な物である。
検証のために、原作小説も読んでみたい。
さてこの映画中、すごく胸を打たれた部分がある。
講堂の檀上で亜紀が「好きよ…」と告げる、
その時の長澤まさみの表情だ。
もちろん僕の個人的解釈なのだが、
死を意識した彼女が
自分のために生きていればよかった今までと決別し、
人生に他者を受け入れる決意・認識をした事で
彼女の少女としての自我が崩壊する瞬間、
という物を想像しえる演技だった。
タイプではないけれど、女優としてはファンになりました。